天の御座につく

今回は異例ですが、下記アドレスの動画をまず見てください。

https://www.youtube.com/watch?v=z2sOl1vQoZs

 

それでは、この動画の中の天の位置につくとはどういうことか、また地上で縛られているということは、どういうことか、これが今回の議題です。

 

私が神に対して個人的に何度も投げかけた疑問の中に、正しい人間は神から護られるはずなのに、実際には護られていないことが多くあるのではないか?というものでした。これは悪い人間が地上で富んでいるということに対する疑問ではありません。なぜなら地上の富は良い人間にも、悪い人間にも与えられ、必ずしも祝福の結果として与えられるものではないからです。ここで言う護られるという意味は、霊的な意味においてです。単に地上の生活が、安泰であるようにという意味を指しているのではありません。例えば、ステパノが神にすべて栄光を帰して神をたたえながら天に召されたのは、霊的には何も損なわれずに完全に護られたと思います。

 

私にとって、基督者になっても不幸や苦しみが多くあるのはなぜなのか?ということは大きな疑問でした。これに対して自分はどんな苦しみが多く、不当な扱いを受けても、神に従うと考える人もいます。たとえ、世から不当に扱われ、迫害を受けても、あるいはまた霊的に攻撃を受けたとしても、それでも自分は神に従うという信仰は一見立派に見えます。しかしこのことに対して私がしばしば反感を覚えたことがあるのは、そこに誇りがあることを感じたときです。しかしもし人間が正しく歩んでいるにもかかわらず、神に護られずにその分を人間の努力によって補ったとすれば、神の分を人間が為した以上は誇ってよいはずなのです。その栄光をすべて神に返す必要はなく、僅かなりとも自分のものとしてよいはずなのです。しかし聖書には、人間は誇ることはできないと書かれています。それにも関わらず、もし人間が誇るとするならば、ここには明確な矛盾があるのです。愛子先生の動画のメッセージにはこのことに対する答えがあります。これは非常に根本的な疑問に対する答えです。人間は、天の御座につくときは、完全に霊的に護られるのです。だから人間には誇る資格が無いのです。しかし人間が護られずに、自分の力で問題を乗り越えたと思ったときには、自分が為したと思っている分を、必ず自分の栄光にするのです。しかしこの自己栄化は、たとえその人間が力強く語り、他人を圧倒したとしても、本質的に地的なものです。人間を地上で縛るものとは、例えばこういうものです。実際にその人間の霊は、地上に縛られているのです。

 

それでは天の位置につくとはどういうことでしょうか?これは難しいこととと言うよりも、本当に信仰があるなら、行き詰まったときにするはずのことです。ある人はひどい対人恐怖症に悩まされていたそうですが、聖書を必死に読むようになり、自分の意識をひたすら御言葉に集中させることによって、徐々にその恐怖が和らいでいき、やがて人と話すことができるようになり、職にもつくことができるようになったそうです。宗教の自由が認められない時代や国家にあっては、人は自ずと必死にこの天の位置にとどまろうとします。自分ではどうすることもできないときには、信仰者なら誰でもそうします。だから迫害のあるところでは、信仰は純粋になるのです。中国のリバイバルでもそうであったと思います。ダニエルが燃える炉に投げ込まれたときには、ただ主のみを見上げていたはずです。迫害の中、最後まで主を見上げて、肉体は滅びても、霊はわずかも損なわれないまま、地上を去った多くの基督者たちがいると思います。日本のキリシタンの中にもそうした人達はいたはずです。だから基督者で、本当の信仰が与えられているならば、いざというときには、天の位置につこうとすることは、誰でもしようとすることなのです。

しかし、キリスト者といいつつも、まともな信仰を持っていなかった人は、世に従属していきます。日本でも戦時中は多くの教会で、そのようなことが起こったと思います。そうして世が変わって平和になってきたときに、自分の過ちだったと悔い改めを公表し、また信仰生活に戻ろうとするのです。キリスト教では、赦しの教えがありますから、状況が変わればそれを何度でもするでしょう。しかし、そのようなことになれば信仰は廃れ、また次の世代には続かず、散らされてやがては消えていきます。

 

もっと身近な例を挙げましょう。先日東京集会である人が、自分の弟のことで祈っているけれど、イエスさまだったらどうするかということを考えた、と言っていたことを覚えています。自分がどう考えるか、ではなく、祈る相手の人がどう考えるか、でもなく、ほかの先生たちがどう考えるかでもなく、イエスさまだったらどう考えるか、です。つまり天の位置から問題を見ようとしているのです。人間のニーズを把握することは大事ですが、そのニーズにそのまま応じることは、ときとしてその人にならないことが多くあります。教会で人の悩みや精神的にやんでいる人の相談を受けていると、いつのまにかカウンセラーにさせられてしまっているというような話を聞いたことがあります。牧師や伝道師であれば、困った人の話を聞くべきだとか、慰めるべきだというような通俗観念にいつのまにか支配されてしまうのです。

 

最近、唖然とするような話を聞きましたが、ある青年が人生に行き詰りまって、教会に来て、みなに祈ってもらい、感情が癒やされ、異言が自然と湧いてきたそうです。異言の意味を話して、神様が来てくださったことを伝えたそうです。当人もこの教会で祈っていただいて、人生が好転して、癒やされた、すごいことだと自分で言っていたそうです。ところが、その後は牧師さんの勧めにも関わらず、自分は大丈夫になったたので、教会に行かなくても大丈夫、自分は宗教には入りたくない、必要になったときにまた聖霊の癒やしを頂きに参りますと言ったそうです。まさに「見ても見ず、聞いても聞かず、悟らない Mat 13:13」です。

 

youtubeのある動画(https://www.youtube.com/watch?v=Gh0cI9p6jGI)で見たことです。赤ちゃんはオムツが濡れると泣きます。すると母親が来て、赤ちゃんを抱き上げ、オムツを換えてあげます。赤ちゃんを抱きしめてあげるので、赤ちゃんはそれが大好きです。だから次回お母さんに抱きしめてもらいたいときは、オムツが濡れてなくても泣くようになるでしょう。これは何をしているかと言うと、人を操っているのです。エデンの園から追放された人類にとっては、これはごく自然の行為なのです。夫婦間でも妻は思い通りにならなかったら泣いて取り乱したて夫はしぶしぶ妻の主張に従い、夫は威圧的に脅して家族は怯えて従います。それは自分の意志を通し、人を操ることが目的です。しかし、神のやり方は、夫婦間で違いがあっても話し合いで解決するのです。祈って神を求め、どうすればよいかを神に聞くのです。しかし人を操る行為は、現実を見ようとはしていません。いつも裏から手を回すので本当の問題が明るみには出ないのです。

 このように人間は、どんなものであっても、それが神の真理であっても、自分の置かれている状況に照らし合わせて、有利に働くように利用する術を教えられもしないうちから心得ているのです。それは計画的に考えて行うというよりは、無自覚的にそれをやってのけるほどまでに人間の本性に深く入り込んでいるのです。悲しいことにこれは罪人としての人間の現実です。だから神よりも人を見ると、知らず知らずのうちに、いつのまにか操られられて、地上に縛られるのです。

 

このように、原因は様々ですが、少し考えると、地上に縛られている自分を見出すことができるかと思います。

 

誰かから軽んじられたと思って、自分を見失ったときには、主にあって自分は何者かということを示される必要があります。自分が軽んじられたと思って、大いに努力して世の成功を収めて人から一目置かれたとしても、それは地上に縛られているのです。それは世的な価値観からは強いように見えても、霊的には弱くて惨めであり、地上に縛られているのです。

 

自分には力がないけれど、他の誰かには力があると思うときには、その人は地上に縛られているのです。そうしたひとは、もし自分に大きな賜物が与えられると、自分には力があると思うようになります。しかし自分は全く無力なもので、救われるに値しないという状態にあるときには、天の位置にあげられることができる状態にあるのです。

 

教会・集会の中にも多くの争いがあります。自分が間違っていないと思って、自分の正しいことを主張しようとするときには、地上に縛られるのです。しかし、真理は神のみにあって、主のみが正しく、主のみが正しい裁き主であることを信じることに留まるとき、この地上的な思いから開放されていくのです。

 

自分の人生は自分が支配していると思うとき、人間は様々な心労に囚われていくのです。経済的な問題、能力的な問題、人間関係、が人間の心を地上に縛り付けていきます。しかし主が万事を備えてくださることに心が挙げられるときには、平安を得ます。

 

キリスト者は、この天の位置と地上に囚われた状態の間を、何度も繰り返し行き来するのです。世人は自分の思いの中だけに生き、それが取り去られるなら死んだも同然だと思いますが、基督者は、天の位置と地上に縛られた状態とを再三繰り返すことによって、自分の思いの中に生きていることが、実は霊的に死んでいるということが分かるようにと導かれていきます。そして主の下に留まるところから離れて、自分の思いの中に再び返されたときには、悲哀を感じるようになるのです。このように起こっているすべての出来事を備え、そこから人間の思いを導いて、神ご自身へと心を向けることのできのは、人間には絶対に不可能なことで、主なる神ただお一人だけができることです。

 

「この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。 「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。Rev 1:17-18」とあるように、人間は塵から作られた存在であり、本来主の臨在に耐えられるような存在ではないのです。それはたとえ預言者のような人であっても同じです。そうした塵から創られたに過ぎない人間が、神のものとされ、神とひとつにされるのは神の業、奇跡です。

 

しかしこの本質的に異質のものがひとつにされるということは、人間の霊と肉体のことを考えるときにヒントが与えられます。人間の肉体は物質であって霊ではなく、本質的に異質なものです。しかしその肉体に生命が宿っているときには、絶えず新陳代謝によって新しくされ、肉体は絶えず腐敗から護られています。そして人間の意志の命ずるままに動き、この世で活動できるように霊に仕えています。霊と肉とは本質的に異質ですが、霊が肉体に働きかけるとそれはひとつのものとされて、肉は霊に仕えるのです。しかし人間の生命が去ったとき、つまりは死んでしまったとき、その瞬間からそれは単なる物質として物理の法則に委ねられ、腐敗してやがては土へと帰っていきます。人間も同じであり、もし神が人間の霊に働かれるのを仮にも止めるなら、その瞬間から人間は霊的に堕落して、単なる肉の思いしかない世人へと戻っていき、やがては霊的に死んでしまいます。人間は人間自身からは死んだものであることは、塵から作られたという御言葉の中によく現れています。しかし、一方で人間はアダマ(大地)であるように、それは種が蒔かれる土地であり、神の創造の場でもあるのです。「生きる」ということは、本質的に神の業なのです。人が天の位置についたときに、本当の意味で「生きている」正確には「生かされている」ということができます。