隣人愛について

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。Mat 25:40』 

 

 

1.神ご自身を体験するということ

先日、私の知人の岡山の家で聖会がありました。その中で一人の兄弟がご自分のことについて証をしてくれました。彼は子供の頃に洗礼は受けていましたが、教会から離れて自分の思うままに生きていました。しかし結局のところ夢も果たせず、人間関係もうまくいかなくなり、社会からも離れていきます。教会に再び通い始めますが、その環境でもうまくいかなくなり、彼は自信を失いどん底に陥って、ついに一人で引きこもるようになります。そのときになって彼は初めて神と向かい合うようになり「神様本当にいるんですか?もし本当にいるなら僕に分かるように教えてください。」ありのままの心から祈るようになります。彼には一人の基督者の友人がいて、ときどき家に尋ねてくるようになります。ある日、一緒に神様を礼拝しましょうか、とその友人が言います。その友人とともにある賛美をしていたとき、その歌詞が心に染み入るように入ってきて、聖霊様に触れられるという体験をします。神様の臨在を感じ、命が溢れてくるのを感じます。神様がすぐ側にいるように感じられ、自分の身体が何かの存在に包まれるような体験をします。岩の上に家を立てなさいという御言葉がありますが、その体験以前は自分は砂の上に立ち続けていた、自分の立つべき岩に帰るように神様が必要なものを備えてくださった。この体験を通して、彼は神様を信じて生きていくという賜物を与えられた、と彼は証しました。

(Mat 7:24,26)。

 

 この証を聞いて私が感じたことは、神が人間を見ることは、人間が他人や自分を見るときとは非常に異なっており、その人の外見や能力、また彼自身が自分だと思っている、または思わされている罪人としての自分ではなく、その人の装いの内にあるありのままのその人を見ており、また愛しているということです。人間のまたは世の見方はこれとは異なり、人より抜きん出ていること、特別扱いされること、あるいは能力、あるいは努力、あるいは何か特殊な才能、要するに何かを所有していることにその価値を置いています。これは神の視点、神の価値観とは反対であり、寧ろ御言葉では「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」とある通り、富んでいると自負するものは、寧ろ神の国に入ることは極めて難しいのです。世の価値観は、外見で人を魅了するものを多く所有させ優越感か劣等感を抱かせますが、これに対して神の救いは万人に開かれており、無償で与えられており、金持ちにも貧乏人にも、博学な者、無学な者にも平等に開かれていて、救いを受け入れるか否かは彼の意志に委ねられています。世の価値観は外なる装いに本質をおきますが、神は内なる人を常に見ています。この世の価値観に人が染まっっていくとき、何かを所有していなければ自分が何か取るに足らないもののように感じてしまいます。神の視点はそれとは根本的に異なるものであり、その人の存在そのものに価値があるという絶対的な肯定があります。賜物に優れた多くの人がいます。誰でも彼らのようになろうと思ってなれるものではありませんが、その特殊な賜物のうちに救いがあるわけではありません。だから岡山聖会での彼が将来大いに祝福されて誰もが羨むような大きな賜物を与えられたとしても、自分が立つべき岩がその体験にあると言った彼の言葉は正しいのです。人間はこの愛をまず知らなければなりません。

 

 

2.隣人愛について

この絶対的な肯定、主から注がれる愛を体験すると、それは単に自分が愛されているということだけではなく、主がどのように人間を愛されているかということが示されてきます。私は最近「イランで死刑宣告を受けた宣教師」という動画を見ました。それは次のような内容です。

 ある宣教師が導きによってイランに行きます。旅も終わり帰国しようとしていたときに、国境であらぬ容疑をかけられ帰ることができなくなります。ひどい取り調べを受け、何度も殴られて、刑務所に入れられてしまいます。奇跡が起こらない限り絶体絶命の危機です。冬でとても寒く陰気な部屋の中で、毎日のように暴行を受け、神の信仰を失いかけます。そしてあるとき死ぬしかないと思い、自殺を試みますが、死ぬことができません。自分が壊れると思うほどに限界を感じたとて床に倒れ込んでいたとき、光が差し込みイエスが現れてくださり、主は彼を見つめて「ダン、私はあなたを愛している。あなたを支えぬくことを約束すると伝えたのです。」そのとき以来、死のうと思ったことがないといいます。どん底にいるときに顕れて、そんなところからでも救い出してくださり、苦しみの最中でも命を与えてくださる。更に神様は、彼を捕らえている人たちを愛するようにと彼に迫ります。「いつも自分のことを殴っているこの人を、私がどう思っているか質問してご覧」、と主に示されてその通りにすると、彼の心が開かれて神がどれほどその人のことを愛しているかを見始めたのです。その後、その人に「もしあなたと一生顔を合わせるなら、いっそのこと友だちになりませんか?友だちになりましょう」と言います。そうして手を差し出すと、彼は凍てついたようになり、彼の頬を涙が流れるを見ます。彼だけではなく、看守たちまでもが変えられてイエスに従うようになったといいます。「彼は死ぬべき理由を持っている、自分もそういうものを持ちたい。」あるとき彼らがそののように話し合っているのを彼は聞ききます。彼は宣教師とスパイの罪で死刑が宣告されていました。法定でイランに来た理由を問われたとき、神の力を感じて、イエス・キリストの証をはじめます。法廷の場で福音を述べ伝え始め、彼らのことを主が如何に愛しているかということを伝えたのです。そのとき彼は自分が自由だということに気がついたのです。死に直面しながらも、誰にもはばからず真理を堂々と語ることができたと、彼は証をしていました。彼はイランの刑務所で9週間拘束されていたそうです。

 

 ここで注意したいことは、彼が自分が自分の愛で愛そうとしたのではなく、主がどれほど彼を愛しているかがわかったと言っていたことです。異邦人の中にも、情け深い人愛情深い人はたくさんいます。人間的な情愛の深さという意味で、キリスト信徒が異邦人よりも必ずしも優れているとは限りません。だから隣人愛とは、人間的な情愛の面でできるかできないかという能力のことを言っているのではなく、主の愛を知っているかどうかの問題です。この愛は、生まれつき人間に備わっている情愛のことではないため、新しく知ることによってしから始まりません。だからこの愛を知っている者は伝えなければならないのです。動画の証の中にあったように、彼は自分の愛で愛したのではなく、主がどれほど彼らを愛しているかを伝えたのです。ところが、はじめは促されて従ったに過ぎなかったことが、彼が主に従うにつれて彼自身の心が燃やされて、主の願いが彼自身の願いへと変えられていったことがわかります。

 救いとは、主のものとされて、主と一つになることです。ここでひとつとは何をもってひとつと言えるのでしょうか?もし体の一部が、その人の意志とは無関係に動き出すなら、それは形の上では一つでも異物が同居しているということになります。教会でも同じことがいえます。ひとつとは主体性がどこにあるかということに関係しています。愛するとうことについて言うなら、神ご自身の愛から愛するということです。だから主を愛するということは、単にイエス・キリストという人物を愛することではなくて、彼が愛しているものを愛することによって、彼の心が自分の心へと変えられていくことです。従うとは主体性を失うことだと通俗的には思われていますが、しかし動画の中で「彼は死ぬべき理由を持っている、自分もそういうものを持ちたい。」という言葉からも分かるように、実際は真の神に従うことはそれを失うのではなく得るのであり、しかも本当の意味で得るのです。これはまさに聖餐が意味していることでもあります。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(John 6:53)」人間は主のものとされることで、主ご自身をいただいて、神の愛から愛することができるようになります。これが隣人愛です。

 

 

3.隣人とは

 隣人愛とは、善意の人だけでなく悪意の人の要求にも応えて他人にいいように利用されることではありません。人間は皆一様に隣人であると考えて、困っている人を助けることが隣人愛だと漠然と考える人が多くいると思います。あるいは逆に隣人愛はそういうものにすぎないため、真理の探求こそ重要であると考える人もいると思います。しかし聖書の真理が教えていることの中でもっとも重要なことは、主への愛と隣人への愛であることが聖書の中に書かれています。そうすると隣人愛は人間的なものにすぎないようだから、真理を求めてたけれども、結局また愛に戻ってきたということになります。問題は、愛についての私達が理解が低くなっていることにあります。また愛について聞くと単に綺麗事のようにしか思えず、何か青臭い若造の理想主義のように思う人もいます。

 

「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 

いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。Mat25:34-40』 」

 

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というこの御言葉からもわかるように、隣人とは単にその人物のことではなく、その人の中に住んでおられる主のことだということがわかります。岡山聖会の証で、彼のそばに居てくれた友人、また動画の証のダンという人は、相手の人の中におられる主を明確に認識したわけではないかもしれませんが、彼らが何に促されていたのかは「飢えている者」「乾いている者」「旅をしているもの」「裸のもの」「病気のもの」「牢にいるもの」のいづれかに意味されるような、その中に主がおられる必要に動かされたように思います。

 

・物質の必要と霊の必要

もし水道が使えなくなるとその日から途端に困ります。そして使えるようになると、問題は解決します。このように物質的な必要は明確です。それと比較して霊的な必要は、それと同じようには明確には把握しがたい面があります。だから人間は霊の要求を物質的なもので満たそうとして依存症になったりします。しかし、霊的な必要が人間にとって如何に根本的で本質なものであるかは、特に幼いときに、十分な配慮と愛情とによって育てられなければ人間がどのように育つかを考えるとよくわります。

 あるアフリカの人で、親に捨てられた人がいました。彼は生まれてから60年間親の顔も知らず、愛情も知らず、抱かれた経験もなく育ちました。親に見捨てられたと知ったときに、彼の心は荒み自暴自棄になり、暴力的になります。しかしあるときにイエス様を知るという経験を知り、愛されるということがどういうことかをしることになります。彼は決して、以前の状態には戻りたくないと証されていました。人は十分な愛情を受け取らなければ、歪んでしまいます。人が歪んでいくと、どんな獰猛な動物よりも残酷になることがあります。人間だけが、獣よりも卑しく残酷になり、地獄に落ちる可能性があるのです。

 

・一般恩寵

一般恩寵という神学的な言葉を聞いたこがあります。これに対してクリスチャンが受ける恩寵はスペシャル恩寵というそうです。そのときは以下の御言葉を取り上げて、一般恩寵の説明をされていました。

『父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 Mat5:45』

 

ところが、この一般恩寵という言葉で私は別の御言葉を連想しました。それはヨブ記で、主の語りかけがあったあと、ヨブは神の前に自分の無知と傲慢を認め、悔い改めるという場面です。ヨブは元より信仰の人であり、自身が語っているように、神が偉大な存在でありそれと比べて無にすぎないことを知っています。単に神が力と知恵の面で偉大であると言うだけであるなら、決してヨブは自分の非を認めずに、最後の最後まで神に頑固に抵抗することをやめなかったと思います。

 

『お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか。 39:1』

 

これらの言葉の中に、命の中には絶対に見捨てられることのできない切実な必要があることを感じます。もし仮にも、何かの手違いで誰かが見捨てられるなら、その人はどうなるでしょうか?目の前で死にかかっている人をみて、もし何もせずに通り過ぎるなら、どれほど無慈悲であると思うでしょうか?このことは特に試練の中において人間が自分の中に認識することです。そのときに彼は神様に必死に求めずにはいられません。

人間がイエス・キリストの救いを必要としなくても永遠に生きていけるものであるなら、私達が伝道する必要はどこにもないのです。この救いが人間にとってどれほど必要であるか、それが絶対的に必要なものであるから、私達はそれを伝える必要があるのです。愛が綺麗事にしか思えないのは、この必要がわからないからです。愛が嘘っぽく聞こえるのは、自分に愛があると思うからです。

 

「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。 Job42:3

あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 42:5

それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。42:6』

 

ヨブが悔い改めたのは、単に神と力と知恵とを再確認したからではなく、全被造物の命の必要を満たし養うということがどういうことなのか示されて、そのことに彼の心が感動したためだと思います。「慈しみとまこと」その言葉の意味することが彼に初めて示されたのです。彼はこの点で無知であることを認めて悔い改めたのです。

 

愛という言葉が綺麗事にすぎないもののように聞こえるのは、それは人間的な愛を現実以上に美化するためでもあります。しかし聖書で教える愛は人間にとって最も根本的な必要であり、愛を知らなければ人間は歪み、更に堕落すれば獣よりも卑しくまた残酷になります。その愛の必要の最も内なるところに主ご自身を求めるものがあり、この必要の中に主ご自身がご臨在されています。隣人というのはこういうことだと思います。

 

 

4.主の出来事

聖会の証で彼のそばに居てくれた友人、またダンと彼の取り調べをした人、彼らがこのような形で出会ったことの中には、人間には計り知ることのできな深い神の知恵(摂理)があります。基督者が用いられれるところでは、必ず神様のお膳立てがあります。全てのお膳立ては神様がしてくれますが、人間が決意しなければ計画倒れに終わってしまうということがあります。だから神様の摂理が最終的に完結するところに、基督者の働きがかかっているといえます。人間が御国のために本当に用いられたいと願っているならば、必ずその役目が与えられ、用いられます。職場でも、教会でもそうですが、自分が与えられている場というものにも、きっと大事な意味があるはずです。

 

『あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。John4:38』

 

基督者に苦労がないわけでは勿論ありません。使徒たちは大変な迫害にの中で、彼らの勤めを果たしたのです。しかしそれでも人が変えられるという点において、人間は直接的には全く無力です。私は『自分では労苦しなかったもの』とは、『人が変えられる』ということについて言っているのではないかと思います。

 

以前に、ある人の証を聞いたことがあります。彼はアルコール依存症になってしまい、仕事もできなくなってしまいます。「自分は社会のクズになってしまった。」彼はそう思ったそうです。病院生活の中で、ある神父さんが一言「神は○○さんのことを愛しています。」と言ったそうです。その瞬間、彼は宇宙がひっくり返るような、衝撃に駆られたといいます。世界を作った神がおられて、こんな自分をも愛してくださる、そのことに心が打たれたのです。彼はそのように言っていました。そしてその後の帰り道、すれ違う人の一人ひとりにものすごい感謝の念が湧いてきたといいます。そしてアルコール依存症をも、信仰の力に拠って克服したといいます。彼の身に一体何が起こったのでしょうか?彼をこのように導いた知恵こそ、神の知恵です。基督教のことを知りもしなかったその人に初めて会った神父さんが、その人を導いたわけではないのは明らかです。そしてことは神父さんとの出会いのその一瞬だけに起こったのではなくて、アルコール依存症で社会人として活動できなくなったことの全ての中にも、人を救いに導く神様の偉大な知恵が隠されています。

 

私達が心を集中すべきことは、主の御用であって、そのために用いられたいという願いがあるならば、必ずそのための場が与えられて用いられます。そのことによって世がどのように変えられるかは、私たちにはわかりません。それは神様の仕事だからです。歴史の教科書にのるような偉い人物になりなさいと子供のころに言われた人もいるかもしれません。しかし御国は自分が偉大な者になるために働くのではなく、神と隣人とに仕えることそのものが偉大なことと言われています。だから必ずしも社会活動のようなことをして世の中を変えるということが、基督者がしなければならないことではありません。あの生活費のすべてを神に捧げた貧しいやもめは、誰一人見ている人もいない、評価する人もいない、どう用いられるかもわからないのに、御国のために彼女のお金を捧げました。彼女は誰よりも自分の心をたくさん神に捧げたのです。彼女の行為は本当の信仰がなくてはできない行為です。イエス様はその行為に最大の評価をされました。だから外見上のことの大小が重要なのではなく、人間の行為を御国のために意味あるものとして用いてくださるのは神の御業です。