完全な者

『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。Mat5:48』

 

 ある牧師先生のメッセージの中で、芥川、太宰、三島の共通する者に、彼らが理想主義者であったとことをあげています。 

 芥川はニヒリストではなく、理想主義者である。『芥川の価値基準は絶対にしかないのであって、真にしろ善にしろ義にしろ愛にしろ、全て絶対なもの純粋なものにしか価値を見ず、相対の場に置いてこない。』結論としては、相対の世界に絶対の世界を求めたら破滅するということでした。 理想の高い人ほど、絶望も激しい。太宰も三島も本物の美がほしかった。 

それとは対照的に 『何故現代の音楽家はバッハの域に達しないのか?それはバッハの至高者との交わりの故である。』バッハの音楽を高めたのは天才でも努力でもなく、信仰の結果である。神様に絶対の美を求めたら芸術も人生も輝く、それ以外の者に求めたら破滅する。神様に来ないなら、理想を求めるのはやめるべきである。実に単純明快です。

 

 私はこの説明を聞きながら、マタイ福音書のこの箇所のことを考えていました。「絶対」と「完全」とは、似て非なる言葉です。人間にはより完全な者になりたいという根本的な要求があります。それは神のような絶対者になることではなく、自分の分を全うしたいという健全な要求です。聖書においては、単に人間の要求というだけではなく、戒めの形で書かれています。理想主義というものが生まれる根底には、この完全なものになりたいという人間の根本的な要求と関係していると、私は思います。もしそうであるならば、何故この人間の根本的要求が、相対の世界に絶対の世界を求めることになり、その結果として自殺という最悪の結末に至るのか?ということが疑問になります。 

 この根本的な原因は自己愛にあります。だから彼らは非凡であることを目指していたであろうし、自分の弱さ、醜さ、凡庸さを自覚したときには自分自身に愕然としたはずですが、何よりも自分よりも優れた才能を他者に見いだしたとき、より多くの何らかの資質を見いだしたときに、自分の存在が危ぶまれるうような不安と苦悩を感じたのではなかろうかと思います。確かに自分の弱さ、醜さをはっきりと把握したときには、自分に愕然とすることはあるでしょう。しかしそのことをあまりに苦悩し、自殺にまで至るのは、何故でしょうか? 

 信仰的にみるならば、どうしようもない自分を知ることは、神により頼む最初の機会です。それはそれほどまでに悩むべきことではなく、寧ろそのときはじめて、神による霊性の回復、新しくされることが自分にはどうしても必要であることが分かるのです。だから自分の置かれている現状や自分自身が好ましくない状態にあっても、いつまでも落胆することは不信仰です。神によって新しくされることを信じる、ここに信仰と希望とがあります。このスタートラインになるはずの地点が、自殺という不幸な結末に至るのは、この上もない悲劇です。 

 彼らをそのように導くものは何なのか?実はこうした誘導をいともたやすくやってのけるのが悪魔というものです。人は霊的に護られていなければ、自分が何に導かれているかほとんど無自覚です(Job1:7)。学のある人も無学な人も、大人しい人も乱暴な人も、まじめな人も不真面目な人も、彼らの弱みの性質に応じてサタンはどのように誘導するかを心得ています。完全でありたいとは、被造物としての自分の分を全うすることであり、それは卓越の意思とは無関係です。しかし自己愛の中には卓越を求める要求があり、これが完全でありたいという要求を、自分の中にまたは他の何らかの対象の中に絶対を求める要求にすり替えさせ、言い換えるならば偶像崇拝を入り込ませることによって、サタンは彼を自分の側に引き寄せ、決してかなえられることのない彼の望みに絶えず失望させることによって死へと誘う、こうしたことがサタンの知恵なのだろうと思います。『空中に勢力を持つ者ephe2:2』とあるように、ここでいう空中は、天ではなく、地上でもなく、その中間のことです。これは人間の思考の世界のことではないでしょうか?よくまじめな人は考えすぎるから危ない、不真面目な人はその点そう簡単には死なない、などとよく言われますが、まじめな人は考えすぎる傾向があり、この空中の勢力の影響を受けやすく、不真面目な人は元来地上的ですから、間接的にしか影響を受けないうことになるのかもしれません。希有の才能であっても、神の庇護下にないときには、この勢力の上にではなく下にあるのであって、人間はこの点では全く非力です。

 

もう一度、御言葉に戻ります。 

『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。Mat5:48』 

この御言葉の前に『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。Mat5:44』という御言葉があり、それでこそはじめて天の父の子供となれるとあります。これは私には、主が愛するように人を愛せと言っているようにも聞こえます。到底自分にはできそうにないという印象を受けます。

 

ここで敵とは誰を指す言葉でしょうか?自分に敵対する人物、あるいは信仰面で対立してくる異教徒、あるいは独裁者のような人物でしょうか? 私はここでイザヤ書の受難の僕の箇所が浮かんできます。

『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 Isa53:3』 

私たちは敵という言葉を、自分に敵対する自分の外にある他者として捕らえますが、この御言葉に触れたとき、私はこの『敵』とは、神に逆らっている内なる自分のことを指していることを思わされます。私が神を無視して生き、それどころか敵対して生きていたときにさえ、神から注がれている愛があったことを知り、その愛の清さ深さに触れて、はじめて人は自分が如何に神に逆らって生きていたことに気づかされます。

 

 自分が恵みを受けたとき、高らかに神を賛美し、密かに優越感を抱く人は多くいますが、しかし卑しき我が身の上にも注がれた神の慈悲に深く打たれて身を低くする人は少ないのです。自分の本当の姿を知って、そこから救われたことを深く認識した人は、その自分に注がれた愛に心からアーメンと言うことができます。真の同意は、それに対する従順を、また従順による一致を意味します。この従順は自分の主体性を、つまりは思考においても行為においても、それらを主から得ると言うことであり、逆に言うと主に所有される(主のものとされる)状態へと導いていきます。人間は本来神の似姿に作られたとあります。この似姿は、この一致からのみ生まれてきます。そしてこれが人間個人としての救いでもあります。