心貧しき者

『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3、ルカ6:20)』

 

(参考)οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι   霊で貧しい者たち、霊で自分の貧困を意識する者たち、自らの霊性で自分が神の前に無一文、乞食同然であることを知る人々(新約聖書ギリシア語小辞典)

 

良い目的であれ、悪い目的であれ、一人の人間が全身全霊でひとつの目的に向かうとき極めて大きな力を発揮します。多くの政治家や活動家に見られるようにそれが喩え悪い目的であったとしても、その目的に捉えられているときには、彼はその目的に向かって全身全霊で挑みます。これとは対照的に、ここで取り上げている心貧しい人というのは、神様によってしか動かされない人だと私は思っています。モーゼがそのような人です。彼は神からイスラエルの民の指導者として選ばれました。しかし彼は、自分が口が重いことを訴え、他の人を遣わすように神様に願っています(出エジプト4:10-13)。神のバックアップの下にパロに対して優位な立場に立つことも、虐げられる者から裁く側に立つことも、イスラエルの指導者となることも、預言者としての栄誉も、彼にとっては彼自身を奮い立たせる真の動機付けとはならなかったのです。多くの極めて有能な「できる」人間は、まさにこのことに動機づけられて、雄弁に語り、指導者としての力量を発揮し、人からの多大な誉れを得ます。いわゆる「世直し」について人間が持つ観念の中にはこうしたものが付随していますが、モーゼにとってもそれは同じだったのではなかろうかと思います。しかし多くの人はまさにそのことに動機付けられるに対して、モーゼはそうしたことによっては動かされることができなかったのです。野心的という言葉は、彼にはほど遠い言葉であり、神が彼に知識を与え、彼を霊的に養い、彼が神の真意を知るに応じて、彼は初めて霊的な力を得て神の人とされることができたのです。誰であれ、神以外の方によっては富まされることのできないこのような霊的状態とされたときに、その人は心貧しい人なのです。

 

 このような人を世の人は決して幸いだとは思いません。寧ろ、なかなかやる気にならない、ノリの悪い、ぱっとしない人間と思います。もっと言うと当人でさえ、自分が幸いな人間だとは思っていないのです。なぜなら、彼の中には未だ世のものが多くあり、彼自身の方法により世の評価を得たいという要求がありさえするのです。しかしそうした動機付けによっては僅かも霊的に強くさせられることはできない霊が彼のうちにあるのです。これは実は私自身の証しであって、モーゼの話は後付けです。『あなたは自分がそのような者であることに甘んじることができずに、しばしば自分の方法で世の誉れを望んだが、そのような目的によっては僅かも強くされることはなかった。命を与えるのは“霊”である(ヨハネ6:63)。私に養われなさい。』私はそのように示されたと感じ、自分がその心貧しき者であると感じたのです。「貧しい」という言葉には、何らかの惨めさを連想させるものがあります。しかしその惨めさを感じさせるものの裏には、それだけ自分には「できる力」があると思っていたことを示唆しています。これは原罪に潜んでいる根本的な誤認です。主に支えられなければ、主がいつも共におられることが感じられなければ、一人で立つこともできない、こうした人は世の多くの人に、また教会の多くの人にさえ軽んじられますが、彼の幸いはいついかなるときも主がともにおられるということにあります。そして主がおられるところに、御国もまたあるのです。それ故に、彼は幸いな者であり、天の国は彼のものなのです。

 

 以上のことに付随して、もう一つ示されたことがあります。それは多くの基督者が、神ご自身によらないものに如何に多く惑わされているかということです。決して主に養われた結果としての強さではない、本人の野心的な性格からくる資質に如何に多く振り回されているかということを考えてみてください。そして基督者が如何にそのことを全く見抜けていないか、霊的な洞察をもっていないことを考えてみてください。裏を返せば、特別な資質を持っていな普通の人を如何に軽くみているかを考えてみてください。ある有能で素晴らしいメッセージをする牧師が、3度も女性問題で不祥事を起こして、いまは信徒が皆去ってしまったという話を聞いたことがあります。またある有名な牧師について、私の知人の一人が批判していましたが、その牧師の動画を見て、彼が何を言いたいのかはすぐに分かりました。要するに、彼の話を聞きに来ている人たちは、イエス様の話よりも彼の話を聞きにきていると感じたのです。基督教を広めるのに役に立っているのだからいいではないかと思う人は、非常に間違っています。真剣に求めている人は、自分の救いにはならないため、いずれ違和感を感じて去るでしょう。そうして救いを求めているわけではない単なる彼のファンだけが周りに集まるのです。こうして『死体のあるところに禿鷹が集まる』という言葉が現実となるのです。

 

 主によってしか満たされることのできない心貧しき人たちが、主の御名のもとに集まり、礼拝を捧げているところに、主がそのご栄光を現してくださるときには、何人も自分を誇ることはありません。自分たちは霊的にレベルの高い教会・集会などと考えるのではなく、自分たちのような者にも主は現れてくださったと心の底から感じることができた喜びの中には、純粋な原始福音的な平和と幸福があります。基督者はこのことを求めるべきでしょう。