『弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ 9:2)』
弟子たちはこの人が盲人であるのは、この人自身の罪か両親の罪かと問います。イエスはこの人の罪でも両親の罪でもなく、神の業がこの人に現れるためだとお答えになります。一見弟子たちのこの問いは、この生まれつきの盲人に対して憐れみのない冷たい問いかけのように聞こえます。しかし、実はこの問いは私自身の問いでもあります。それは罪を犯したわけでもないこの人が、生まれつき盲目という不幸から神に護られずに成人になるまで、何故このように物乞いをしながら生きなければならならなかったのかという疑問であり、そこには苦しみのあるところには必ず罪があるはずだという前提があります。そうでなければ人間は罪が無くても霊的に護られないのか?という根本的な問いが起こってきます。だから私は、この人の罪でもなく、両親の罪でもなく、この人に神の業が現れるためであったにせよ、それでも盲人に生まれるという不幸が許されたのは、広い意味での人類の罪が関係していると考えていました。
しかしこのヨハネ9章を読んでいるうちに、全く別の視点が与えられました。この方は生まれてから成人になるまで盲目であったと書かれています。当時の弟子たちや、パリサイ派の人たちの反応からしてもわかる通り、このような人は罪人として蔑まれていたことがわかります。しかしそれにも関わらず、この人のパリサイ派の人たちに対する受け答えは、霊的に極めて健全です。彼は大人です、という両親の言葉にも、霊的成熟という霊肉の両方の意味が暗示されているのではないかとさえ思わされます。イエス様によって癒やされた人のうち、神に栄光を帰して神を賛美した人たちは寧ろ少数であったことが ルカ17:17にも示されています。弟子もパリサイ派の人たちも彼を知っている人たちも、彼を罪人としか見ていません。そのような環境の中に育ってなお、如何にして彼はこのような霊的健全性を保つことができたのでしょうか?ここまできたときに、私はこの人は果たして不幸な人なのか?果たして霊的に護られていなかったと言えるのか?そもそも霊的に護られるということはどういうことなのか?という問いが起こってきました。彼は盲目であり、物乞いであったと言われています。盲目が霊的な意味を含んでいるのは分かりますが、それだけではなく物乞いという言葉にも霊肉両方の意味を含んでいるように私には思えます。彼はその生い立ちの故に、自分の置かれている状況がわからない盲目の人であり、それ故に霊的な渇望者であったと思うのです。このような渇望を人間の中に起こすことは、神様にしかできないことです。更にこのような彼の境遇は、世の様々な喧噪から彼を聖別して、霊的な人にしたと言えば言い過ぎでしょうか。彼はイエス様に出会い、肉の目を開かれますが、ルカ福音書で神を賛美しなかった9人たちのようにそこで終わったのではなく、イエス様を信じて永遠の救いの中へと入りました。この救いは永遠であり、何者もイエスと彼とを切り離すことはできません。だからこの御言葉の『神の業』とは単に肉の目が開かれただけのことを意味しているわけではないことは明らかであり、彼が肉の目を開かれただけではなく、霊の目が開かれて、イエスを救い主として受け入れるに至るまでのことを指しています。それどころか、この人が盲人として生まれ、物乞いをしながら生き、霊的盲目と渇望の中で生き、ついに自分の救い主を見いだしたことは、純然たる神の摂理の中にあったことが見て取れます。この全部が、つまり盲目に生まれてから救い主を見いだすまでの彼の全生涯が、神の偉大な御業であることがわかります。
『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。(ヨハネ6:29)』
とあるのは、まさにこのことです。
このヨハネ9章は、この盲目の人についての出来事だけを取り扱っています。ヨハネ福音書の全21章のうち丸々1章(41節)分が、彼の出来事に割り当てられています。これはほかの癒やされた人たちの中でも特別な扱いであることがわかります。しかし彼を知る人も、それどころか彼自身も決して自分が幸いな人間だとは思ったことはなかったことでしょう。肉の目で見る限り、彼は憐れなただの罪人にしか見えません。しかし霊の目によって永遠の救いを目的とした御摂理を思ったときに、彼の苦労は一時のことであり、その後には永遠の救いがあることが分かります。この救いへの道は、決して彼が望んだことではありません。否、そんなことを望むことは、決して人間にはできないのであり、人間の救いは神の摂理に完全に属していることが分かります。寧ろ、自分の意に沿わない形で導かれ、彼の霊の眼が開かれたときに自分の生涯に起こったことを悟ることができたのです。見えるというギリシャ語には、ブレポーと、アナブレポーというふたつの言葉が使われています。アナブレポーには、目が開かれるという意味がありますが、もうひとつの意味として、アナは上という意味で上を見るということから仰ぎ見るという意味があります。ここに2つの見るという言葉が使われていることは注目に値します。
盲人として生まれるという彼の生涯は確かに特殊です。しかし彼と決して同じではないものの、人間が新しくされることの過程には、彼の生涯に起こったことと同じこと、すなわち霊的盲目と飢餓とが起こってきます。これは他人のことを言っているのではなく、私自身の中にその類似性を見ているのです。「人生設計」という言葉がありますが、それを歩むことによってその人の霊が形作られる、そのような人生設計は決して自分で計画することはできません。もしそんなことができるのであれば、そもそもその生を歩む必要は無かったでしょう。今の自分に何が起こっているのか全くわからないとき、そのときには人間には信仰が、真の信仰が必要になります。最初から結果が見えているなら、信仰は必要ないでしょう。私自身が霊的に自分に何が起こっているのか分からなかった者であり、霊的な餓えを持って生きてきた者です。この霊的盲目の間にも絶えず信仰が与えられて、霊的に導かれてきたと思います。それは昼の光と比べると余りに頼りない月の光のようなおぼろげな光ですが、この光の中に主は全てを知っておられ、いつの日か救ってくださるという希望もまたあるのです。