『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 (ヨハネ 14:12-13)』
聖霊の働きについて述べられるときに、この聖句はよく引用されます。癒やしや預言の賜が与えられた人は、神によって特別に選ばれた人だと見られがちです。しかしDr.愛子先生は、聖霊による奇跡は全ての信徒に起こることである、と自信をもって断言しておられました。私が個人預言を与えられたときにも「もし主が誰かのことを祈るように示されたときには、ためらわずに祈ってください。大胆にいてください。癒やし・奇跡はあなたについてきます。」と言われました。そのとき、私はある思いが示されたように感じました。私はきっとこういうことなのではないかと思っています。
『誰かのために祈れとは、その人に主なる神の願いを示せということである。私自身がその主の思いに動かされて、主の願いが私自身の祈りとして出てきたときに、こころが聖霊に満たされて、様々な癒やし・不思議が起こってくるのである。それは単に精神的・霊的なもののみにとどまらず、その満たしがあふれて物質・肉体にまで及び、その結果として、様々な癒やしや奇跡が起こるのだ。だから私は私自身から愛そうとしたのではなくて、ただ主なる神の愛の深さに打たれて、私のこころがこれに順応にしているにすぎない。しかしはじめはそのようにして主に促されて動かされたに過ぎなかったものが、その清さ深さに触れるにつれ私自身のこころが燃えるように求めはじめて聖霊の通り良き管となったとき、奇跡は後について来るようになるのである。』
主なる神が動かされる基準はただひとつであって、それは誰かが本当に神様を必要としているときです。特に自分ではどうすることもできず、他の誰にもどうしようもないときです。人が心の底から主を叫び求めるとき、動かずにはいられないのが主なる神様のご性質です。しかしそのようにして、主が動いてくださったときにも、私たちはその真意を十分にはくみ取らずに、人間的な思いで受けとめがちです。あたかも自分が正しいから、あるいは何らかの点で他の人より優遇されたから、あたかも神様から特別の扱いを受ける資格があったかのような想いが、ある人にとってはあからさまに、またそうでない人にとっても密かに入ってきます。私たちの罪ある心の中には、このような思いが悲しいまでに深く根付いています。私たちが思うほどには、私たち人間の熱心は、主と歩みを共にはしていないことが多くあることを、私たちは絶えず悔い改める必要があります。愛子先生が、どのような信徒にも奇跡は起こると断言するのは、そのような他者に対する優越、特別な資格のようなものはそもそも私たちには存在せず、私たちは元来罪人で、イエスの十字架なしには、死に定められるべき存在であったと深く理解しているからだと思います。その資格がないことを悲しむのか、そのように資格のない者が恵みを受け取ることができることを喜ぶのか、基督者としての分かれ目はそこにあると思います。
『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(ヨハネ 6:53)」』
教会は基督の身体と言われます。ここで教会とは、教会を成している私たち一人一人のことです。もし私たちの身体の一部を切り落とせば、その瞬間からそれは身体の一部ではなくなって、単なる物理的な作用に委ねられてやがては腐敗して土に返ります。しかし切り落とされていない肉の部分も、単にそれ自身で見るなら肉に他なりません。その肉が生命によって生かされているとき、絶えず腐敗から守られて霊と一つになり、霊に仕える身体とされています。人間の霊と肉体とは本質的に異なるものでありながら、ひとつとなっているのは霊が肉を生かしているからです。それと同じように、主なる神と人間とを一つのものとして連結させるたった一つのものは、この愛、つまり主への愛と、隣人への愛に他なりません。この愛が、肉体を絶えず腐敗から守る生命のように、私たちの霊を私たち自身の罪の性質から引き上げて私たちを生かすのです。先に示されたように、主にあって愛に動機付けられている状態が、まさにそれです。
多くの人は、人間が抱く愛のようなものが、救いと関係するはずは無いと思っており、その結果として信仰のみが人を救うという結論を得ています。しかしそのような信仰が人を救うと本当に思うのでしょうか?私たちがこの世を去るとき、肉体を捨て去りますが、そのとき捨て去るのは単に肉だけではなく、私たちが所持している多くの財産も同様にこの世においていきます。それは単なる物理的な財産だけではなく、聖書の知識や神学的な思想さえもおいていくと私は思います。それらは救いの手段ではあっても、救いそのものではないと思います。私たちはこの愛を私たち自身が持っているような低い愛にしてしまいがちです。神様の愛の究極的な目標は人間の救いです。救いとは何かを説明するには、救いのことを神学的に説明しても明確にはなりません。しかし救われていない苦しみのの中にあるとき、そしてそこから真に救われたとき、人は本当に救われたと感じるのです。そこに神学的な説明は必要ありません。Youtube で『地獄への旅①』という動画を見ましたが、この動画には救いとは何か、人は何から救われる必要があるかがよく示されています。この動画にも良く現れていますが、人間は神様によらなければ、本当の意味で変えられることはできません。誰でも救われなければならない地獄が自分の中にあることを把握して、そこから救われることを心の底から叫び求めたときに、神様は動いてくださいます。この単なる力ではない、人間の救いに対する切なる願いの中に、聖霊の『聖』なる性質があります。